──なぜ……なぜ、こんなことになった!? 母を庶民にもつ彼は、兄弟の中では一番皇帝の地位から遠い場所にいた。けれど兄弟たちが|不慮《ふりょ》の事故や病気にあい、残された健康な者は彼だけとなってしまう。 そんな彼の目の前に現れた男も、兄弟であった。兄ではあったが性格的な問題を多く抱え、皇帝争いに負けた経緯をもつ。 病気や事故には|遭遇《そうぐう》してはいない。ただこの男は……究極のホラ吹きでもあった。性格が|災《わざわ》いし、皇帝争いでは後宮の者たちから|猛《もう》反対を食らってしまう。 結果としてこの地に追いやられたのだが、蘇錫市(そしゃくし)の者たちはそれを知らなかった。「皆様、よーくお聞きください! この男|魏 宇然《ウェイ ユーラン》は皇帝の地位を利用し、蘇錫市(そしゃくし)を滅ぼそうとしているのです!」 油ぎった顔を歪ませ、不気味な笑みを浮かべる。「今まで顔すら見せなかった皇帝が、なぜ今日になって突然、この町を訪れたのでしょうか!?」 両手を拡げて演説した。|疲弊《ひへい》し、傷を負った民たちの心の|隙間《すきま》へと、男は容赦なく入りこむ。 わざとらしく涙を流した。「その答えは簡単です! ここにいる気味の悪い髪色をした者を使い、蘇錫市(そしゃくし)を滅ぼそうとしているからです!」「な……っ!? |魏《ウェイ》 |固嫌《グゥーシィェン》、貴様!」「……馴れ馴れしく、名を呼んでほしくはありませんなあ」 |魏《ウェイ》 |固嫌《グゥーシィェン》は彼の実兄である。けれど仲がいいわけではなった。むしろ権力争いで、誰よりも皇帝の座を欲した男として知られていた。 ──なぜこの男が、こんなふうに強気でいられるのか。それ以前にこの町の者たちがなぜ、こんな男の言いなりになっているのか。 苦虫を噛み潰したような表情で、男を凝視した。「|此度《こたび》の|襲撃《しゅうげき》事件、皇帝である|魏 宇然《ウェイ ユーラン》が手引きをしたという情報が入りましてなあ。このおん……な?」 少しばかりの困惑を交えながら|華 李偉《ホゥア リーウェイ》を指差す。女でいいんだよなと、彼と対峙するときとは変わってへっぴり腰になっていた。美しい|見目《みめ》の|華 李偉《ホゥア リーウェイ》を直視しては、照れたように顔を赤くさせる。 ──まずいな。こい
バタバタと、数人の|官僚《かんりょう》たちが慌てて彼の元へとやってくる。 黒い|官僚《かんりょう》服に身を包んだ彼らは|魏 宇然《ウェイ ユーラン》の前で立ち止まり、ぜぇぜぇと荒い息をしながら調子を整えていった。 先頭にいる男が布で汗を拭きながら、ふたりへあることを告げる。「た、大変でございます! 蘇錫市(そしゃくし)にて、暴動が起きました! そ、それから……剣が通じぬ、化け物も同時に現れました!」 それを聞いたふたりは顔を見合せ、急いで蘇錫市(そしゃくし)へと向かった。 □ □ □ ■ ■ ■ |魏 宇然《ウェイ ユーラン》と|華 李偉《ホゥア リーウェイ》は、王都の印でもある花の|紋様《もんよう》をつけた|革鎧《かわよろい》を着た大勢の兵を連れて向かった。 けれど蘇錫市(そしゃくし)に着くと、そこは火の海と化してしまっている。逃げまどう人々、戦う兵たち。|焔《ほのお》が燃え広がり、骨組みから崩れていく建物など。 町というものは消え失せ、全てが地獄に成り果てていた。「……これはいったい」 |絶句《ぜっく》という言葉では片づけられない惨状が、彼らの前に押しよせている。 そんな状態を作りだしたのは、町を我が物顔で|徘徊《はいかい》する存在たちだ。身体が透明な者、動物に似た姿だけどかわいらしさが何ひとつとしてない存在。それらは皆、人間とは似て非なる者たちだった。「まさか、あれは妖怪!?」 誰が放った言葉か。それすら探るのも難しいほどに、おびただしい悲鳴と爆音がしている。そこかしこから聞こえ、誰もが耳を塞ぎたくなるような光景になっていた。 それでも|魏 宇然《ウェイ ユーラン》は剣を握り、妖怪たちに切っ先を向ける。「怯むな! 我々は、この町の人々を助けに来たのだ!」 彼のよく通る声が、この場を走った。 兵たちは武器を手に、勢いをつけて妖怪へと向かっていく。けれど実体のない者もいるため、武器というものはあまり効かず。逆に、兵たちが|殺《や》られていった。 「……やはり、武器は通じぬか」 彼らが戦うは妖怪で、人ではない。人を|喰《く》らい、闇へと引きずりこむ。そんな存在だった。妖怪は、いつ現れるかも定かではない。今回のように、町を|襲撃《しゅうげき》するのは珍しいことではなかった。 加えて、妖怪は物理的な攻撃が効きにくいとされてい
|全 思風《チュアン スーファン》の正体は、かつてこの|國《くに》を治めていた始まりの皇帝でもあった。けれどなぜ、そんな彼が|冥王《めいおう》になっているのか。|始《し》皇帝でもある|魏 宇然《ウェイ ユーラン》に何があったのか。 そして、この|夔山《ぎざん》で何があったというのだろう。 誰もが驚きながら彼を見つめ、答えを待っていた。「……どこから話そうか」 そっと呟き、壁にかけられている鎖を触る。ジャラジャラとした音が洞窟の中に響いた。「ただ私は、最初から皇帝ではなかった。元々母が庶民の出でね。父となる男に|見初《みそ》められて後宮入りしたんだ。だけど父には、たくさんの子供がいた。それが後々大変な事になるんだけどさ」 両親が死んだ直後、皇帝の地位は空となってしまう。|國《くに》としては、このまま皇帝なしというわけにはいかなったのだろう。大勢いる子供たちの中からひとり選び、新たな皇帝として迎え入れる。 それが、|官僚《かんりょう》たちの考えであった。「派閥みたいなもの、かな。そういうのが出来ちゃって、私もいつの間にか巻きこまれてしまったんだ」 遠い目をし、手から鎖を離す。|棺《ひつぎ》へと向かい、はめられている剣を手にする。それを|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》へと投げ、持っていろと目で|訴《うった》えた。 |黒 虎明《ヘイ ハゥミン》は無言で腰に剣を納める。「……いろいろあって、私は皇帝になった。だけど兄弟たちは、そんな私を|快《こころよ》く思ってはいなかったんだろうね」 あの手この手で彼を追いつめ、皇帝の座を奪おうとしていた。それでも彼は皇帝に選ばれたのだからと、真面目に|政《まつりごと》へと取り組む。 その最中、彼はあるひとりの青年と出会った。「彼がどこから来たのかなんて、当時の私は考えもしなかった。だって、唯一の味方として|側《そば》にいてくれたんだからね」 敵ばかりの宮中で、ひとりでも味方がいる。これほど心強いと思ったことはないと、当時の心境を口にした。 † † † † ──ああ、空が高い。こんなにも高く、手の届かない場所にあっただろうか。 男の、長い黒髪が風に遊ばれて揺れる。その髪を押さえる手は|無骨《ぶこつ》で傷だらけだ。 男の名は|魏 宇然《ウェイ ユーラン》。|禿《とく》王朝の初代皇帝になった男である。
木々が、彼らに道を開けていく。 黒い髪を三つ編みにした端麗な顔立ちの男──|全 思風《チュアン スーファン》──が先頭を歩けば、空気が冷たく肌を触る。 彼が歩いた瞬間、草木は|枯《か》れた。地面は沼のようにドロドロになり、土の中で眠っていた虫たちが|骸《むくろ》となって現れる。 彼に手を握られて肩を抱かれながら歩くのは|華 閻李《ホゥア イェンリー》だ。頭の上に|躑躅《ツツジ》、首には|青龍《せいりゅう》をかけている。右肩にはもふっとした白い仔猫、|牡丹《ボタン》がいた。 そして不思議なことに彼の歩いた場所を踏めば、色素を失った草木は|甦《よみがえ》り、元気にまっすぐ伸びる。地は一瞬にして固まり、死んだ虫たちが息を吹き替えしていた。「──ふふ。私が死を呼ぶなら、|小猫《シャオマオ》は生を作り出す存在なのかもね?」「……?」 彼の発言は子供の小首を|傾《かし》げさせる。少年とともにいる動物たちまでもがきょとんとしながら、子供と同じ行動をとっていた。 ──んんっ! |小猫《シャオマオ》、可愛い! ……ああ、そうか。この子は無意識にやってるんだね。 彼の力を浄化する。たったそれだけのことだが、子供が持つ特殊な力が発揮されていた。 けれど少年は、ときおりそれらを無意識に放つ傾向がある。今回もそれだろうと納得した。 そんなふたりの後ろには|黄《き》族の|長《おさ》、|黄 沐阳《コウ ムーヤン》が。|殿《しんがり》を努めるのは|黒《こく》族の新しき当主、|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》がいた。 彼らは壊れては再生されている自然や生き物に驚きながら、これがこのふたりなのだと口を挟むことをしない。 やがて先頭を歩く|全 思風《チュアン スーファン》の足がとまる。子供の細腰に手を回し、抱きよせた。「着いたね。さて……ようこそ、死と闇が眠る地【|夔山《ぎざん》】へ──」 そこは何もない地だった。 それは山と呼べるような場所にあらず。 ただ中心に大きな穴のようなものがある。そして、奥の崖に鉄格子のようなものが挟まっているだけであった。「……な、に、これ……」 彼の腕の中で、美しい顔立ちの子供が怯えてしまう。彼の服を強く掴み、見たくないと|云《い》って目を|背《そむ》けた。泣いてはいないが声に震えが含まれている。 彼は少年に優しい笑みを落とした。柔ら
|爛 春犂《ばく しゅんれい》という名も、|瑛 劉偉《エイ リュウウェイ》という人物すらも、誰も知らない。ただそれだけならば、隠密のような存在として活躍しているということで納得はいくのだろう。 しかし|爛 春犂《ばく しゅんれい》が持っていた八卦鏡(パーコーチン)。今は|華 閻李《ホゥア イェンリー》の体内にあるが、元は彼が持参していたものだった。「……あれは皇帝ひとりにつき、ひとつだけしか使用を許されない物だ。皇帝がひとりだけ選び、その人に与える。その人が死んだとしても、皇帝が生き続ける限りは、違う誰かが持つなんて事はないんだ」 皇帝が亡くなれば新しい八卦鏡(パーコーチン)が作られ、また、誰かに渡される。けれどその人も、皇帝すらも八卦鏡(パーコーチン)をそれ以上作ることは叶わず。渡すこともできない。 それが|爛 春犂《ばく しゅんれい》が腰にかけていた八卦鏡(パーコーチン)の、最大の秘密であった。「あんたが聞いてきた事が本当なら、|爛 春犂《ばく しゅんれい》が持っていたという事そのものがおかしくなるね」 |全 思風《チュアン スーファン》の瞳は空を見上げる。 陽は沈み始め、空は暗くなっていた。月はなく、星もない。代わりにあるのは上空から降る白い結晶の雪だった。「これは定められている事だ。例え皇帝であったとしても、|覆《くつがえ》す事はできない」 彼の低い声には|覇気《はき》がない。他人事、されど自分のことのように語った。 腰を上げ、|焚《た》き火をしようと提案する。 隣で黙って話を聞いていた|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》は|頷《うなず》いた。 □ □ □ ■ ■ ■ バチバチと、|焚《た》き火の|焔《ほのお》が風に|煽《あお》られている。 少し離れた場所にいる馬を見れば、雑草をむしゃむしゃと食べていた。馬の頭の上には|躑躅《ツツジ》が乗り、気持ちよさそうに眠っている。 「……動物は|呑気《のんき》でいいよな? 俺らが生きるために頑張ってるってのにさ」 そんな|愚痴《ぐち》を溢すのは|黄 沐阳《コウ ムーヤン》だ。彼は片膝を曲げて、|焚《た》き火を見つめている。いつもの|漢服《かんふく》を着、深くため息をついていた。「人間の言葉はわからんのだろうさ……それよりも、お前の屋敷にいた|爛 春犂《ばく しゅんれい》。奴は本当に、何者
|殷《いん》が|周《しゅう》へと変わったように、時代が進むにつれて|國《くに》は変化を遂げていった。大きい、小さい。それに関わらず、この地を治める者たちは今もなお、変化をもたらしていった。 そしていくつかの|刻《とき》を巡り、|國《くに》は|禿《とく》王朝を築く。その|禿《とく》の始まりの王、それが|魏 宇然《ウェイ ユーラン》であった。「──|魏 宇然《ウェイ ユーラン》は、庶民の出でね。本来なら、たくさんいた兄たちが皇帝となるはずだったんだ」 ガタガタと揺れる荷馬車の中で、|全 思風《チュアン スーファン》が低い声を|轟《とどろ》かす。膝の上には銀髪の美しい子供、|華 閻李《ホゥア イェンリー》が座っていた。「初代皇帝の名って、初めて聞いたかも」「ん? そうなのかい?」「……うん。だって、歴史書物とかに記載されてないから」 勉強熱心な子供にとって、初めて聞く名は|興奮《こうふん》の対象となっているよう。そわそわしながら両目を輝かせ続きを早くと、視線で|訴《うった》えていた。「うっ!」 この顔に弱い彼は言葉を詰まらせる。咳払いし、子供をぎゅうと抱きしめた。「……|魏 宇然《ウェイ ユーラン》は、半ば無理やり王になった。皇帝としての知識もないまま、ね」 何の知識も持たぬものが政治など行えるのだろうか。その不安は、民たちによる|謀反《むほん》によって証明されてしまった。 「今の皇帝、|魏 孫権《ウェイ ソンケン》がまさしく、初代皇帝と同じ立場にいる」 民からの声をなあなあにした結果、内戦にまで発展してしまう。それは初代のときとまったく同じであり、このままいけば滅びを待つだけだと宣告した。「……確かにこうしてる間も、あちこちで内戦が続いてるって聞いたよ。日に日に、|戦火《せんか》は激しくなってるみたいだし」 だけどさと、子供は見上げる。その先には戸惑うように眉根をよせる彼がいた。「どうして|思《スー》は、そこまで知ってるの? どうして歴史書物に載ってない事にまで、詳しいの?」 裏表のない純粋な眼差しが、彼にのしかかる。 それでも彼は|毅然《きぜん》としながら瞳を細めて笑んだ。「そう、だね。それも含めての|夔山《ぎざん》、かな?」 少しばかり声が震えてしまう。 |勘《かん》の|鋭《するど》い子供のことだ。ほんの少しの変化で